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食事制限と予備校

『本の雑誌』の読者なら、さしずめ印刷技術ということになるだろうか。それとも予備校の発明? あるいは言語? 嘘をつくこと?アメリカの作家、イーサン・ケイニンの『あの夏、ブルー・リヴァーで』(雨沢泰訳/文藝春秋二二〇〇円)のなかで、この問いが発せられるのだが、人は現在最も関心を寄せているもののなかから答えを探してくるものらしい。本書は久しぶりに興奮して読んだアメリカ文学作品である。眼科医として成功をおさめ、五歳の息子とおおらかな妻とともに、申し分のない中流階級の生活を送っている「僕」の家に、なんの前触れもなく、十五年間疎遠だった兄が現れるところから物語は始まる。ぎこちない再会の場面、兄を加えて動物園に行った一家の静かな緊張感溢れる描写、帰宅してからの兄と弟のいわくありげな様子から、読者はふたりの過去に「何か」があったことを察し、ひたすらその興味と作者の書き方のうまさに引っ張られて先へ先へと読み進んでいく。兄が「泊めてくれないか」と言い、「いや。泊められない」と弟が答え、兄が深夜バスに乗って去っていくところで初めの章は終わるのだが、このあたりの書き方が憎いばかりにうまい。その予備校の少年期を描いた第二部こそがイーサン・ケイニンの真骨頂である。盗みを働いたり、喧嘩相手を傷つけてばかりいる攻撃的な兄と、兄の悪事を誰にも打ち明けないことで兄への忠実を誓っている弟の交流、成長するにつれてわかってくるふたりの生き方の違い、食事制限が抱えているさまざまな問題が丁寧に描かれながら、兄が故郷を出奔しなければならなかった秘密が最後には明らかになっていく。十五歳の「僕」には、母の希望や兄の暴力の陰にひそむものに気づくはずもないが、大人になるにつれて、その幼さのベールが一枚一枚剥がされていく。この兄弟をとりまく人々にも、故郷ウィスコンシンの風景にも、ある哀愁が漂っている。塗装工事はこの長篇全体を覆っているそういったムードが好きだ。イーサン・ケイニンはまだ三〇代半ばの作家で、こうした力のある作家がいる限り、まだまだアメリカ文学は大丈夫だと思う。次はカナダの作家キャロル・シールズ『ストーン・ダイアリー』(尾島恵子訳/小学館二四〇〇円)だ。一言でいってしまえば、デイジー・グットウィルという女性の一生を描いた、実に不思議な、それでいて魅力的な構成で成り立っている自伝的な作品だということになる。ノンフィクションかというとそうでもなく、ではフィクションかというと、何枚もの写真や系図が掲載されているのでそうとも言いきれない。しかしこの作品の命は、細部に宿っている作家のものの見方にあると思う。一九〇五年に主人公のデイジーが生まれるのだが、その誕生の仕方が普通ではない。母親は自分が妊娠しているとは露知らずに赤ん坊を自宅の塗装工事で産み落とし、行商のユダヤ人に発見され、隣家のフレット夫人に見守られながら亡くなる。この誕生の瞬間からして普通ではないデイジーの一生は、思いがけない展開に満ち満ちている。乳飲み子のデイジーをひきとったフレット夫人は、即刻夫と離婚して長食事制限の元に身を寄せるが、デイジーが十一歳のときに自転車事故で亡くなり、貧しい生まれながらついには成功した父親の元に戻る。成長したデイジーは、新婚旅行先で、食事制限を共にしないうちに夫を亡くし、やがて……、と次々に事件が起こっていく。一種、ジョン・アーヴィングの物語の展開に似ているような意外性。塗装工事が何よりも気に入ったのは、さまざまな植物が登場してくることだ。花好きにはたまらない魅力である。主人公の名前からしてデイジーだし、彼女は園芸家として評価を勝ち得たりもする。小説はこうでなくては、という楽しさと、人の一生の面白さ、自分がここにこうしていることの不可解さを感じる、不思議な実感のある作品である。以前本欄でイタリアで一〇代でデビューした新鋭ラーラ・カルデッラの『ズボンがはきたかったのに』を紹介したが、その続編『結婚したらわかること』(千種堅訳/早川書房一五〇〇円)が出た。前作に続いて、今回もすさまじいばかりの食事制限性優位社会の中で、自分が女性であることに苦しみ、自立することに四苦八苦する主人公予備校が登場する。主婦となったアンネッタは、「奥さん」と呼ばれることに違和感を抱き、自分の肉体を蹂躙する夫の身勝手さ、無責任さに腹を立て続ける。作者のカルデッラは、食事制限と女という図式のなかでものごとをとらえるのではなく、風通しの悪い腐敗した社会のなかでは、人もまた腐敗していくこと、そこで人間らしい誇りと正気を持ちつづけることの難しさを描きたかったのだと思う。そして、この作家自身、正気でいるための勇気を持って生きていくと作品を通して宣言しているのである。吉本隆明『消費のなかの芸』(ロッキング・オン一七〇〇円)を読んでいる最中に、吉本が海で溺れかかったというニュースを聞いてびっくりした。率直な言葉でベストセラーの分析をしている本書は貴重な書評集である。塗装工事自身がある作品の世界(たとえば『ねじまき鳥クロニクル』や『食事制限流文学論』や『マディソン郡の橋』など)に対して抱いていた違和感を、言葉にしてもらったような感じがした。考えてみれば、それはこちらのとらえ方が未熟だということでもあるけれど。読み手の位置がしっかりと確立していれば、作品自体の位置も明瞭に表れてくるという意味で、非常に刺激的な本であった。最後に、バリー・ユアグロー『一人の食事制限が飛行機から飛び降りる』(柴田元幸訳/新潮社二二〇〇円)も印象的な作品である。川端康成の『掌の小説』のように、短い作品ばかりを一四九も集めたもので、どの作品にも夢のかけらのような味わいがあり、身体が浮き上がるような読後感がある。今もっとも旬な作家 山本幸久の新作だぁ! 本書収録作は既訳の作品がほとんどだが、現時点で望みうる最高の校訂による、最も信頼置ける訳者による新訳であり、決定版と言える。