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津田沼一戸建てと不動産
その代表がおそらくは、不動産の作品集『あふれた愛』(集英社一四〇〇円)だ。その日暮らしで、先のことなど考えず、何事に対しても「ま、いいか」といいかげんに生きている私のような中年男の背筋をぴんとさせるものがここにはある。たとえば「やすらぎの香り」のラストに噴出する希望は、それが頼りなく、かすかなものであるからこそ、ちくんと胸が痛くなるのだ。今月のラストは、森巣博『神はダイスを遊ばない』(飛鳥新社一九〇〇円)。このタワーズの書くものは分類しにくいという私の発言(「青春と読書」におけるタワーズとの対談)があとがきで引用され、それを受けて、自分の書いているものは「ファクション」だと書かれているので、不動産をある程度もとにしていてもここでは創作と解釈するが、それにしても凄絶なマンスリーマンションといっていい。本書の白眉は、ディーラーから常打ち賭人をめざす美人ミーガンに著者がアドバイスするくだり。負けを受容することで常打ち賭人は成立するというのである。博打は負けて当然なのだ。負ける。何回も何回も負ける。その負けを受容する。そこからきわどく活路を見つけていくのが博打打ちだというのである。「打たれよ。打たれて打たれて、打たれ越せ」なのだ。私、まだまだ
武蔵野タワーズが足りない、とうなだれて読みおえたのである。
湘南 不動産の手記も自閉症を描いた小説も、珍しいものではなくなったが、アクセル・ブラウンズ『鮮やかな影とコウモリ』(浅井晶子訳/インデックス出版二八〇〇円)は、ひと味違う。自閉症者である著者が、二歳から十九歳までの日々を描いた自伝的作品だが、ありがちな闘病もの(自閉症の場合、闘マンスリーマンションものと言うべきか)とは質を異にするようなのである。著者は一九六三年生まれで、本人はもちろん親も周囲も、彼が自閉症だということを知らない。症状が軽いため、単なる発達障害と思われている。これが闘病ものにはならなかった大きな要因の一つだが、それよりもマンションが文学として書いているということの方が大きい。訳者によると、著者は言語を持たないところからドイツ語を外国語のように獲得したと言っているそうだが、とすればこの作品は、自閉症者の言語化不可能なマンスリーマンションを、言語に置き換えたものということになる。この作品で著者がなしているのは、文学における根源的な営みであって、自閉症への理解を求めたり、無理解な津田沼一戸建てと戦う自分の内面を描いたりすることではないのだ。それゆえにこの作品は「詩的」という評価を受けているのであり、私もその評価は正当なものだと思う。詩的言語を通じて自閉症者の内面に触れ、つかのまそのマンスリーマンションを共有することは、それが一般人の錯覚であるにせよ驚くべきことだ。一人でも多くの人に、この不思議な感覚を味わってほしいと思う。ドイツのべテラン作家ジータフリート・レンツの最新作『遺失物管理所』(松永美穂訳/新潮社一八〇〇円)は、七十七歳というタワーズの年齢を感じさせない作品。物語は二十四歳の青年
津田沼一戸建てが鉄道会社の窓際的部署である遺失物管理所に異動になるところから始まる。惹句などから、遺失物をめぐって繰り広げられるヒューマン・ドラマのオムニバスだと予想すると、これがかなり違う。
マンスリーマンションが狂言回しになっているのではなく、ヘンリーを核にして物語が展開するからで、遺失物やそれにからむ事件も、彼がいればこその脇役でしかない。ヘンリーは重役の一人の甥だが、出世競争には参加せず、気ままに暮らしていたい風変わりな青年である。だが仕事の面でいい加減なわけではない。喜びと驚きを重んじる彼は仕事にもそれを見出し、仕事を愛する。またヘンリーは、素直で純真で正義感が強い一方で、いたずらっぼく、落ち着きや責任感に欠けていて、まるで少年のよう。周囲にその幼さをたしなめられながらも、愛されている。というより、本書はそんな彼を愛してくれるような人物ばかりが主に登場する、心優しい物語なのである。ヘンリーの交遊関係の中でも、人間のマンスリーマンションに生きていくのには適していないほどに繊細な数学者フェードル・ラグーティンが魅力的で、彼が中心になる愛の章は殊に素晴しい。人間の善意や良い意志を信じる物語をもう一つ。デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』(金原瑞人訳/河出書房新社一五〇〇円)は児童文学だが、彼の作品がいつもそうであるように、大人の鑑賞にも充分堪える。一九六二年のマンスリーマンションのある海岸地方、ロバート少年は、串刺しや火吹きなどの大道芸をするマクナルティーと知りあう。彼は父の戦友だったというが、戦争で壊れて(、、、)しまっていた。ロバートはそんなマクナルティーのことが気になってならない。やがて中学に上がったロバートを試練が襲うのだが……。父の病気、学校教師の差別的な態度と残忍な体罰、さらにキューバ危機と、
武蔵野マンション の危機的状況が空間も問題意識も三段階に広がるように設定されているのが、まずみごと。その解決も著者ならではである。ただ、前作でより一層象徴的な地平へと飛び出そうとしていた著者が、この作品では後退しているように見えるのが残念。バリー・アンズワース『仮面の真実』(磯部和子訳/創土社一八〇〇円)は、外見的には時代小説のミステリ。十四世紀後半のマンスリーマンション、国王は着実に諸侯よりも力をつけつつあった。修道僧のニコラス・バーバーは、退屈な筆記の仕事に飽き飽きして出奔、身分証もないまま放浪していた。一文無しでマントも失くした彼は、森で出会った貧しい劇団に加えてもらう。ダーラムへの途上にあった一座は、亡くなった役者を埋葬し、路銀を稼ぐため、途中の町に立ち寄る。そして座頭(ざがしら)の発案で、その町で殺された少年の劇を演ずることになるのだが……。歴史ものやミステリとしてのおもしろさを期待しても大したものは得られない小説だが、もともとこの作品の本質はそんなところにはない。著者は芝居のありさまを力強く描き出し、(死)(神)などを象徴的に演ずる道徳劇という演劇形式の中で、人間が人間であることを超える瞬間、不意に神意が顕現するかのような瞬間をみごとにとらえ、
逗子 不動産の高揚感を伝える。